伝票工房に至るまで
私の亡き父から聞いた話です。
1951年 戦後まもないころ、福岡市内で印刷会社の印刷工として働いていた19歳の青年の話です。
一生懸命と満たされぬ日々
毎日毎日、馬車馬のごとく朝から真夜中まで働き続けていた青年は、ある時ふと「社長とその家族とが、自分たちの食事が違うことに「あ・・・なんでこんなに違うのだろう」と失望して一年のお礼奉公の後に大阪に出てきました。
大阪で印刷工として働くうちに「白石君 君、独立するんやったら中古の機械。月賦で安く売るよ」「信用していただいて、ありがとうございます。やっと独立することができます」と大阪・西淀川区花川町で小さな印刷屋さんをはじめました。
義理を欠くべからず【創業期】
せっかく、ご厚意ではじめられた会社だから、きっちりと返済することが大切や。義理を欠いては、いけないと、一生懸命に働いたそうです。
1953年 白石印刷は、「真夜中でも電気がついて働いているので、花川銀座」と近所でも有名な働き者でした。昼間は営業をして、帰ってきたら自分で機械を廻して印刷、そんな生活が続いたと聞いています。
共に働く人は家族
1956年 淀川区新北野の地で、美秀印刷株式会社を設立するころには、2~3人の人を雇えるようになっていました。バラックの会社に職人さんとともに寝起きし、同じものを食べる。みんなと同じものを食べるのが当たり前だろう 家族やから・・・
1959年 29歳で結婚してからも、下宿する社員さんと父と私たち家族も同じものを食べる。だから、母は大家族の食事を一人で賄って大変でした。
私も小さいころを思い出すと社員さんのひざの上で遊んでもらったり、キャッチボールをしてもらっていたことを思い出します。
最古参の温泉川さん
なんと75才にして 今も現役、週2~3日今もなお嘱託社員として共に働いてもらっています。
伝票印刷会社の新しいもの好き 違うことを恐れない
亡き父の話でよく出てくるのは、「新しいものを工夫したくなる。それが楽しいんや」
1960年代の伝票印刷会社は、活字を一文字づつ組んで版を作ることから始まります。一文字づつ組んでいくのですから大変な労力がかかっていました。「これを何とかしたい。何とかならんものか?」パンフレット、本がカラーで印刷されるようになり、オフセット印刷機がドイツから輸入されていました。伝票もオフセット印刷できれば、綺麗で活字組をしなくてもいいと、ハイデルベルグ製オフセット印刷機を導入しました。周りの同業者からは、「美秀の社長は伝票を高価なオフセット印刷機械で印刷しよる。機械道楽や」と揶揄されていたようです。また、複写伝票の帳合いを女工さんが手で取っていました。一組ずつ一組ずつ。これは何とかしないといけないとドイツからネッカー帳合い機を日本で2番目に輸入して使うようになったそうです。
同業者方たちと違うことを恐れない。新しいことを取り入れることを大切にしてきました。
お客様に対する姿勢、一人一人のお客様を大切にする
亡き父の基本的な営業姿勢は、何度も足を運んでお客様と親しくなることだったようです。時には、「また来たのか」とあきれられる程だったようです。実際私が後継者としてご訪問をした際、どのお客様からも親しく接していただけました。日頃からの「お客様と父のつながりの深さ」を感じていました。
さらに、父によく言われたのは、守衛さんであれ、掃除のおばさんであれ、お客さもの門をくぐったらすべてお客様で、どんな人でもないがしろにしてはいけない。誠実に接することを厳しく躾けていただきました。
顧客のニーズを新しい形に
父があるお客さまへ毎日のように納品に行っていく中で、「本町の高い賃貸料のオフイスで伝票を保管管理して、全国の工場に発送することを私たちが代わりにできたら、お客さんは便利になる。コストも減らせるし、私が納品に行かなくてもいいから、合理的や。」FAXが出始めで高価な時代にFAXでの受発注を行い、自社でお客様の商品をお預かりして小分けして各工場に発送するサービスを開始しました。
現在でも 商品をお預かりして お客様の各の支店、工場、お店へ直送するサービスをさせていただいています。かなりのご好評をいただき2016年には、倉庫の拡張を行いました。
時代の変化に機敏であれ【独立独歩】
1960年代 手書きの複写伝票にカーボン紙を挟んで伝票を書いている時代に、複写伝票の裏にカーボンを印刷する、裏カーボン印刷の変化にもいち早く挑戦したそうです。当時は、高価でまるでお金を刷っているように儲かったようです。
1970年 手書き複写伝票からコンピューターで印字する時代になると「連続伝票」をいち早く始めました。当時連続伝票を印刷する会社が少なく、大手の印刷会社から、下請けをしないかと話が出たそうですが、「鯛のしっぽより、めざしの頭でありたい」とこの申し出を断ったそうです。
ノーカーボン紙の登場
複写伝票は、裏カーボン印刷からノーカーボン紙へと新しい技術が開発され、裏カーボンの需要が減ってきました。みなさんが今お使いのノーカーボン紙も当時は品質が一定せずクレームが多かったようですが、今では安定し広く一般的に使われるようになりました。
連続伝票印刷機で手書き複写伝票をつくろう
1980年代 手書き伝票がコンピューターの登場で減るかに思われましたが、経済成長とともに伝票の需要も伸び、お客様の中でも対面販売されるお客様にとっては、手書き複写伝票はなくてはならないものであることに変わりはなかったようです。お客様の中のスーパー様の成長とともに手書き複写伝票の仕事も増え、枚葉機での印刷では量的にさばききれなくなり、さらに納期短縮の為に生産性の向上と低価格が求められコスト削減が絶対命題になってきました。そこで、連続伝票印刷用の印刷機械は、高速性があり、枚葉機でカットされたノーカーボン紙よりも巻き取り用紙の方が紙代も安く仕入れられ、帳合いスピードも速いことから、高生産性を創りだすことができました。それで連続伝票印刷機械での手書き伝票印刷にシフトすることになっていきます。
事業継承と復活
バブル崩壊とリーマンショック
バブル崩壊により主要顧客様の統合と価格競争に巻き込まれて、徐々に落ちてゆく売り上げ。
1995年 そんな中で父は急に人生の終わりを迎え、私が35歳で美秀印刷株式会社の代表取締役に就任しました。
しかし、時代の荒波に翻弄され、先代が築いた売上の仕組みの終焉が近づきつつあることを予期しながらも何もできずにただ座して終焉を迎えるがごとく精神的に辛い日々を送っていました。
2000年 この時期は、価格競争で私たちの会社よりも大きな会社との戦いを繰り広げ、また、お客様のシステム化により伝票の複写枚数が減り、じり貧に陥る中、自分の経営力のなさ、営業力のなさに「美秀印刷もこれまでか」と自暴自棄になりかかっていました。
そんなとき、ある経営勉強会と出会い、教えを受けたことがきっかけで、自分を大切にしていない。行動していない自分に気づかされました。
そこから、「このままではいけない!」と一念発起し、何か今の自分にできることはないかと手探り状態ながらも様々なことにチャレンジを始めました。まだまだ経営に無知だったこともあり、業務知識の薄い商品を扱おうとして失敗したりもしましたが、2005年にインターネットでの伝票の製造販売に着手しました。当時は、インターネットでの伝票販売がうまくいくか、どれだけのスピードで成長していくかもわからず成功すると信じてやるしかなかったですが、「もうこれしか方法がない」とインターネットでの伝票印刷販売にすべてをかけ、『日々一つ一つ改善』を続け、現在何とか多くのお客様にご注文を頂けるようになってきました。お取引いただいているお客様に日々感謝しています。
第二創業期 インターネット販売の可能性に未来をかけて
私たちは多くのお客様との出会いを求めて、自社サイト「伝票工房」を立ち上げました。今までに培った伝票印刷のノウハウ、印刷設備を新たなお客様にご提案できるチャンスに恵まれることとなりました。さらに、これまでお客さまの伝票を管理しお預かりし全国への配送に関するノウハウ、宅急便・佐川急便・西濃運輸様との実績により運送コストも同業他社との差別化もできていました。
「伝票工房」立上から11年を経る中で、WEB受注での失敗を日々改善しながら、営業マン、制作者、印刷工程管理者の分業ではなくマルチタスクな人材を育成することで、独自の仕組み『営業制作チーム』を作りました。「作業工程のスピードアップ」「マンツーマンでお客様に対応することで、『貴社の為に、私が責任をもつ』意識向上となり、それがサービスの迅速、品質維持、丁寧な対応へとつながりました。」これにより、多くのお客様から迅速な見積提出・校正提出、丁寧な対応、長年培った印刷技術により伝票品質の良さをお褒めていただけるまでになりました。
《一社一社 ひとりひとりの客様、一つ一つの商品を大切にする》《お客様から「ありがとう」を頂ける》《お客様の困りごとにチャレンジする》 私自身、いろいろな経験をした中で、大切なことは「共に働く人たちとそれを支援していただくお客さまであること」に気づかせていただき。自らの使命としたいと思っております。
2017年に設立60周年を向かえ、現在、伝票印刷から皆様のお役にたてる『いつもの印刷屋さん』、ワンストップ印刷会社を目指しています。《お客様に新たなサービスを提供する》 お客様から「ほかの印刷物もやってもらえたら便利なのに」とのご要望が出始めて、封筒・シール・カード・名刺と少しずつご要望に応じて対応を広げております。